between you and me

ふと、自分が持っている自己と他者の距離と言うか他者に対しての自分のスタンスみたいなものを考えて物思いにふけっていた。
そこで思い出したのが大学に入ってすぐに読んだ鷲田清一氏の『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)と言う本だ。鷲田清一さんは高校の同級生のお父さんでかなり有名な哲学者だと聞いていたので本屋さんで名前を見つけて買ってみたのがこの本だ。
大学に入ったころは誰しも「最近ちょっと哲学に興味があって。」なんてかっこつけて哲学の授業に出てみたものの開始10分で心地よい夢の中なんてことがあると思うが、って俺だけか。まあ、ちょっと小難しそうなことに興味を持つ馬鹿な年頃なんだよ。
でも、鷲田さんの本は哲学なんて堅苦しいものではなくてだれでも読んで面白い本だった。人によって違う自己と他者の捉え方をナルヘソと思わずうなずいてしまうような分かりやすい例などをあげて書いてあったと思う。たぶん。
ネットで鷲田さんのことを調べてみるととあるページに行き着いた。http://www.shobunsha.co.jp/html/tyosya/tyosya-09-1.html
田口ランディとか言うおばちゃんとの対談だが、面白くて一気に読んでしまった。SMがどうとか、かなりアブノーマルな方向に進んでいったが、ひとつ画期的に面白いと思ったのは男と女の自分の体のとらえ方の違い。男にとって自分の体とはどこか抽象的で心と身体が乖離した状態にあるという点。反対に女はずっと自分の体と言うものに向き合って生きていて、心と身体が近いということ。男は女の持っているような身体言語のようなものをもっていない。
これはすごく納得のいく言葉だった。確かに自分は頭で考えている。体で考えるようなことはしない。でも、女は時々体でものを考えているような気がする。女の人が自分には意味不明の考え方や行動に出たときビックリすることがあるけど、その根底に体でものを考えているのかもしれないと思った。そう思って考えると納得のいくことが沢山あるからだ。男が自分の身体言語を取り戻さないと駄目だなんてことが書いてあったが、男にとっての身体言語と言うのは「戦い」だと僕は思う。太古の昔から男は喧嘩をしたり戦争をしたり、戦い傷付いて感じる体の痛みと共に生きてきたのではないだろうか?殴り合うだけではなく、狩をしたり、走って競争したり、体を動かして初めて出来ることこそ男の喜びであり、身体言語であったはずだ。しかし、現代の社会では人を殴るようなことは野蛮だとされているし、大人になるにつれて喧嘩も競争もしなくなり、電車に乗って会社に勤め、休日は家でごろごろなんてことになっているから本来の男の身体言語を失っているのだと思う。僕が学生選手として自転車で頑張っていた時は確かに自分の体がもっと身近にあったと思う。毎日からだと向き合って生きていた。レースで必死になって走っているとき、そこには体の痛みと共に喜びと興奮とが体と一緒にあった。
男が男の身体言語を失わないためには体を動かす以外には無いのだろうと思う。勤めるようになっても運動から離れないようにしたい。
鷲田さんの本をまた読んでみようと思った。